院長の「JoJoブログ」
ローマ教皇の思い出
2019-11-29 14:44:57投稿
今週、ローマ教皇が4日間、日本に滞在され、82歳のご高齢で大丈夫なのかと心配するほどの過密スケジュールをこなして、バチカンに帰国された。
今回の訪日で、マスコミで必ず上がってきた言葉が、「38年ぶり」というもの。
私にとって、この「38年ぶり」というのは、他人事ではなく、「ああ、あれから38年もたつんだなあ」ととても、思い出にひたる数日となった。
ちなみに、38年前は、ローマ法王と言っていたと思うのだけど、この”法王”と”教皇”というのは、意味としては全く同じ呼称だそうで、この度、フランシスコ教皇の来日に合わせて、日本での呼称は、教皇に統一されることになったらしい。
38年前、広島で、カトリックの女子高に通っていた私は、学校で”パパ様来日”に備えて、いろいろ練習させられたものだ。その当時、ローマ法王ヨハネパロ2世のことを、カトリックでは”パパ様”と呼ばねばならないことに、強い違和感を覚えていた。クリスチャンではなかったのだが、学校では、年に数回はミサに参加していたし、シスターにはとてもお世話になっていて、反キリスト教ではなかったのだけれど、思春期特有の反感を持つこともちょいちょいあったからだ。
そのパパ様が、広島の平和公園を訪れ、記念碑まで歩かれる前に讃美歌を歌うのが、わが校に課せられた大きな仕事だった。讃美歌そのものは、普段から歌いなれているし、歌詞を覚えるのも問題はなかったけれど、とにかく、その日は、寒かった。1981年2月24日の広島の最低気温は2℃。女子高の私たちは、当然、学校の制服着用。制服のコートは薄手だし、スカートの下はストッキング1枚で、靴も制靴のローファー。昭和の時代には、ダウンジャケットとか、ブーツとかが一般的ではなかったとはいえ、もう少し、厚着を許されるべきだったと思う。なんせ、パパ様が広島空港に到着される前の朝早くから平和公園に立ったまま待っていたのだから、この時間がどんなに長く、寒かったか。人が大勢いたことで、少しは気温があがっていたのかもしれないけれど、記憶の99%は「寒かった」が占めている。
そして、残りの記憶は、パパ様が平和公園に到着されたとたん、「ぱぱさまぁ!!!」と叫ぶシスターたちの声。普段、静かに私たちに”お教え”をされるシスターの興奮が、思春期の私には異様に映ったものだ。さらに、肝心なパパ様の姿自体は、なんせ、びっしりと数百人で立っている私たちの十数メートル向こうを歩かれるので、背の低い自分には、見えても白い帽子(カロッタ)だけ。この、カロッタというのは、身分で色が決まっていて、白は教皇のみ。多くの司祭は赤なので、背伸びをしてみていても、赤い頭ばかり目に入り、白いの、白いのと探すと、やっと白いカロッタがみえてきて、それが真っ直ぐ進んでいくのを眺めていた。頭より下は全く見ることができず・・・
というわけで、38年前の記憶は、寒い、ぱぱさまぁ!!、白い帽子 の三つ。
今度、ローマ教皇が、日本に来られるのが、何年先かわからないし、私が生きている間にはもう来られないかもしれないけれど、ローマ教皇というのは、世界中に多大な影響を与える立場なので、この度のフランシスコ教皇の核廃絶のメッセージが、核保有国に届くのを、被爆2世として祈っている。